神輿紀行(3回) ――日光 東照宮編――
地球儀上ではすごーく小さな日本でも、旅をしていると逆にすごく大きく感じる。それは江戸時代まで日本全土には幾つもの国があり、その中にまたいくつもの幕府や大名統治の所領が存在し、それが小さな国のようでもあった。前記の国は旧国名で後者は天領や藩である。これらの国は独自の文化を持っていた。その独自と思える文化も実は交易などにより、いろいろな姿で混ざり合っていたりする。あるものは海路により、またあるものは陸路に伝播された。
日光東照宮は全国でも最も多くの文化が取り入れられた神社であると考える。その規模において関東圏は勿論関西圏に及ぶ幅広い文化が巧みに存在する。東照宮に存在する文化は、江戸時代の幕府管轄の主要街道をみれば一目瞭然である。これらの街道の主は「五街道」であった。五街道を地図上でみると、西は今の大阪市で北は福島県白河市までの限られた地域であった訳です。日光は関東平野の北に位置し、江戸時代日光山参詣の為に江戸より奥羽方面に向かう奥州道中の宇都宮(栃木県)宿より日光に至る街道を整備し日光道中とした。日光は江戸と同様に街道が集中しています。主要街道は日光道中のみですが、幕府直轄管理の脇街道も日光に集中します。北方面より二路の会津道が今市宿(栃木県今市市)に入り、南からは壬生道が楡木(にれぎ)宿で中山道倉賀野宿(群馬県)よりの例弊使道と合流し、今市宿で本道に合流します。何故これらの街道が集中した理由には19回に及ぶ東照宮への徳川将軍自らが参詣したことです。将軍の自らの東照宮参詣ともなりますと御三家を始めとして諸大名も供奉しました。大名が移動ともなると家中衆の数も並大抵ではありません。18世紀頃の江戸には武家が60万人ぐらいいたそうですから、江戸屋敷より日光への大移動には当然多くの街道を必要としました。この将軍参詣を『社参』といいます。大名や公卿が宿泊する宿屋を『本陣』といいますが、今市市大桑には御三家の専用本陣がありました。将軍社参の旧四月十七日早朝本陣を早立ちした御三家藩主が今市で将軍本体の到着待ったのです。将軍のみではなく、京より東照宮に奉幣する勅使を例幣使といいます。例幣使は正保4年(1647)より毎年旧4月17日に京より東海道、中山道を下り上記の倉賀野で例弊使道より壬生道経由して日光道中より東照宮に参詣しました。このように日光は将軍や勅使が参詣することにより、参勤交代途中の大名達がこぞって参詣したようです。
なぜ冒頭に街道のことを書いたかといいますと、日光東照宮の建造物造営関わった人の範囲と幕府管轄の五街道の範囲が同じように思えるからです。これだけ多くの人の目に触れる東照宮の建造物に幕府は威信にかけて造営した筈です。元和3年(1617)将軍秀忠造営の東照社では畿内・近江の大工頭であった名工の中井正清が、寛永13年(1636)将軍家光の大改修での大棟梁はこれまた名工と謳われた甲良宗広であった。甲良家は江戸の大棟梁といっても出身地は近江国(今の滋賀県)である。この大改修には江戸の大工頭の木原・鈴木は、自らの配下の職人とこの当時すでに完成の粋にある近畿一帯の建造物を手がける大工頭中井に応援を頼み、配下の職人の多数が応援に東下したと思える。今に残るあの建造物はこれら職人一人ひとりの技術の結集が見事である。建物をじっくりと見ていると神仏習合時代だからこそ作り得た箇所がたくさん見える。和様建築あり、唐様建築ありと一棟一棟の建物の全体も素晴らしいが、横から左右から裏からその建物をみると、当時の大工の大らかに細かい所を作り上げた創造にいつも感動する。日光周辺には日光造営の職人が故郷へ帰る路銀稼ぎに作ったものと云われる社殿や祭り屋台があるが、真意は別として日光造営の質の高さを示した表現と思える。
東照宮の神輿もまた関西で新調された。至極当然なことで、当時関東神輿の職人のレベルが低く、関西特に京・近江には建造物同様に神輿の完成度が高い。江戸時代の神輿を見てみると、京・近江には金銅装神輿の一線級が現存しているのに対し関東神輿は発展途上の感があり簡素な造りが多い。この神輿の最大の特徴は当代一の禁裏職人の手によるもので、天台宗のお膝元の大津坂本(滋賀県大津市)で造られた、関東最高の関西神輿である。新調された三基の神輿もまた例弊使同様の道を辿り日光に着かれたか、もしくは大坂より海路で江戸に出て日光道中へ、もしくは御成道経由で日光へなどのコースで着かれたのか興味が尽きないが解明されていない。

陽明門内の神輿。
陽明門下部の代表的木鼻の獅子がこれです。この獅子鼻を模した御輿は数多くあるが・・・・・・・。

この神輿には鳥居がなく板瓔珞の
中心に華鬘が垂れる。。
この神輿も東照宮へ納められた後、安寧であったわけではない。慶応四年(1868)戊辰戦争の時、天台座主の輪王寺宮公現法親王が前年に江戸寛永寺本坊に入られていた。法親王の本坊は東叡山輪王寺門跡(寺号は東叡山寛永寺)に通常は住まいし、日光山輪王寺門跡と大津坂本の輪王寺滋賀院門跡をも兼帯した。この輪王寺宮に徳川幕府は朝廷との橋渡しを依頼嘆願した。宮は苦慮したが江戸町民の安全と幕府の安泰のため、駿府(今の静岡市)に赴き、朝廷軍総大将の公卿に面会を求め嘆願する手筈が面会も叶わず追い返されたという。その後、無血開城の江戸に進軍してきた朝廷軍将兵の横暴な狼藉さに幕府軍の彰義隊は江戸町民の安全のため立ち上がった。朝廷軍将兵と彰義隊の間に軋轢が生じ、江戸町民を守る彰義隊は好感を持たれ、逆に無血開城で占領した朝廷軍は江戸市中で手を焼いた。これを打開するのに朝廷軍の長は「身から出た錆」を棚に上げ彰義隊に、また宿営地が上野の寛永寺境内であったので寛永寺門主の輪王寺宮に矛先を変え、上野戦争が起こった。輪王寺宮は戦を避け奥州へ落ち延びて行かれた。輪王寺宮の兼帯であった日光山にも戦の火の手が延び総攻撃を朝廷軍は企てた。神輿は他の宝物とともに会津へ一時逃れていった。道筋は上記の会津道を田島より若松に向けて行ったのであろう。あの重量ある神輿が運ばれるからには大変な苦労があったと想像できる。しかし一歩間違えばあの名品も今は拝見出来なかったかもしれない。東照宮の神輿は関西の神輿のように、緊急の場合でもすぐ舁けるように轅は台輪に固定されている。

春季渡御祭で渡御する三基のうちの一基。
この神輿のみ鳥居付。

急坂を下り御旅所へ向かう神輿。
最後に江戸第一の大社江戸日吉山王権現社(現日枝神社)の神輿を書いてみたい。この社こそ江戸城見付門内にあり、前方には大名上屋敷が背には溜池が広がり、庶民がおいそれと参詣できる神社ではなかった。山王社の階段下には天台宗の観理院という別当寺があり、社務は大津坂本の日吉山王権現社(現日吉大社)と同じ樹下氏であった。江戸山王社の社殿は将軍自らが大旦那になり寛永造立の日光東照宮を参考に権現造りの華麗なる建物が万治2年(1659)造立された。残念な事だが今次大戦に消失するまで江戸前期の東京を代表する建物で国宝に指定されていた。この建物と同時に神輿が三基造られたと推測する。社殿の評価を考えるとさぞかし日光東照宮同様に凄い神輿があったのだと思える。明治44年発行の『東京年中行事』の中に日枝神社の神輿のことが書いてあるので引用してみる「昔の神輿は今のとちがって、金襴ずくめで飾りたてた、それは素晴らしいものであったとやら」と記されている。私もこんな神輿を現物は無理としても写真でも良いから見てみたい。
© 平成十七年 師走好日 監物 恒夫 記
交通
東武鉄道日光駅、JR日光駅
東北自動車道宇都宮インターより宇都宮・日光道路
東照宮鎮座地
栃木県日光市山内
祭礼日 5月17・18日、10月17日