神輿解説 第十五回 滋賀県多賀町敏満寺 胡宮(このみや)神社
令和元年(2019)7月 記
湖東の大社多賀大社南方に敏満寺という地名がある。この地に昔清涼山(青龍山)と号した天台宗敏満寺という大寺があった。開基は聖徳太子まで遡るとの記録もあるという。平安時代皇室の祈願所となり荘園を寄進され、堂舎40、僧房88があり荘園を守る僧兵を抱えていたと想像できる。鎌倉時代には元寇降伏の祈祷も北条より執達された。室町時代には足利も保護したが、近江守護の佐々木は歴代祈願所に対し禁じられているにも関わらず課役をかけてきた。佐々木との不和で文亀3(1503)年3月兵火により120余の堂宇坊舎が焼失し大打撃を受け、再建できない塔頭もあった。
佐々木の後は浅井が権力を握った。浅井の祈願所は敏満寺西谷の西照寺であった。永禄5(1562)9月浅井は久徳城を攻め、久徳に加勢した敏満寺を焼き討ちした。その後再建されるが、浅井・織田は不仲になり元亀2(1571)年叡山を焼き討ちし、翌3年浅井に味方した敏満寺を焼き討ちし天正元年(1573)浅井の小谷城が落城した。
その後坊舎は再建されるが、往時の偉観にはならず衰微して廃絶していった。
豊臣秀吉は叡山・日吉大社を再興、多賀大社は天正6年4ヶ年の工事が始まり敏満寺の鎮守社の胡宮神社も再建された。
江戸時代家光が将軍なると多賀大社が寛永10(1633)から5年間をかけ大造営された。胡宮神社もこの時に大造立されたようだ。現在本殿大棟に三葉葵文の大金物があるが、徳川より許されたものという。
この造営で神輿も造立されたという。神輿の屋蓋には徳川初期に使われた三葉葵文が一盛と巴文二盛の大金物が施されている。そして胴部縁には屏障が四面を設けている。40余年神輿を追いかけているが、屏障がつく神輿は日光東照宮、京都御霊神社などしか見られない貴重な神輿である。寛永の大造営の際多賀大社も神輿を新造されているようだが、その後の火災で焼失しているようである。この神輿が胡宮神社神輿のように屏障が設けていたのかわかりませんが、全国の神輿では、その地の中心の神社を基に新造されるのが通常で、日光東照宮も御霊神社もその一社のみで類似の神輿は見当たりません。文化3(1806)4月の胡宮神社神輿の目録にも「御衝立四ツ」とみえ、放れ物は取りかえられたとしても神輿本体に付属する屏障は寛永時のままと思える。
数年前より胡宮神社を調べていたが、今年初めて青龍山へ登ってみた。この山には巨岩信仰の磐座がある。この磐座が神体山で里に下りた胡宮神社より遥拝するようになったと考えられる。日吉大社の神体山同様に清々しい気持ちで下山できた。
御旅所にて
胡宮神社大鳥居より急峻な階が続く。
大鳥居付近に敏満寺の仁王門があった。
神輿渡御
拝殿前に還御した神輿は3回差し上げられ納まる。
舁かれる古神輿の渡御はすぐ再訪を考える。
神輿は舁かれて真の価値がある。